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無茶々園をぼくらが いま、えんえん語る【第14回】

2023.06.30

ここの暮らしも仕事も「すてき」。だから、仲間とつないでいく。

 

無茶々園 いまのひと

有限会社 てんぽ印 取締役

酒井 朋恵 37歳

 

 

無茶々園の組織のひとつ、生産者グループ「てんぽ印(じるし)」。愛媛県内に複数の農場を持ち、野菜、柑橘をはじめとした果樹の有機栽培に取り組んでいる。スタッフは若く、全員が新規就農者という異色な組織だ。東京都出身の酒井朋恵は2013年からてんぽ印のメンバーになり、現在、代表の村上とともに若い組織を引っ張っている。酒井のこれまでとこれからを訊いた。

 


 

人と人。心地いい距離感があると知る。

 

-無茶々園との出会いは?

27歳のとき、無茶々園の研修制度を利用して、1か月間働いたことがあるんです。訪れたのがちょうどみかんの収穫時期で、いろんな農家さんところに手伝いに行きました。作業を終えた後、晩ご飯に呼んでもらったり、寮にお酒とか持って来てくれたり、いろんな人が本当にいろんなことをしてくれました。都会の感覚でいうと、人との距離が近すぎると思う人もいるかもしれないけれど、私にとってはとても心地いい距離感だったんですよね。

 

-研修期間で無茶々園に入ろうと?

食べ物もおいしいし、景色もいいし、生き方、暮らしもいい。全部気に入ったのですが、踏ん切りがつかなくて研修を終えた後、他の県の農家だったり農家民宿だったり、あちこち見て回りました。でもやっぱり、頭の中に無茶々園のことが離れなくて半年後に舞い戻ってきました。

 

-決め手は何だったのでしょう。

ここの生き方、暮らしでしょうか。あとは、「てんぽ印」という新規農業者を受け入れる組織があって、農家ではない自分が農業をすることができる、暮らしていけるんだっていうのを見せてくれたのが、大きかったですね。

 

 

酒井は、東京都江戸川区に生まれ育った。都内の日本獣医畜産大学(現「日本獣医生命科学大学」)で畜産を学ぶ。ところが、授業の中で心に残ったものは「有機農業」。その言葉を手がかりに就職先を探し、有機のものを扱う生協に就職した。

 

 

有機農業という言葉と出会い、直感がはたらく。

 

-なぜ畜産学部を選択したのでしょう。

子どもの頃から、野生動物が好きでした。ただ単に好きってだけではなく、テレビで“ゴリラの森が伐採で無くなっています”とかいうニュースを見れば「何とかしなきゃ」みたいな、なぞの使命感も抱いていました。畜産を学びたいというよりも、動物について勉強しようと思って畜産学部を選びました。

 

研究は楽しかったのですが、やっぱり動物を保護する活動がしたくって自然保護官(レンジャー)の道も考えました。でも実現するのがむずかしそうだったので、「もっと身近でできることがあるのでは」と考えていたころ、大学の授業で有機農業を知って、直感的に「あ、これだ!」と思ったんです。

 

-なぜ有機農業に心が振れたのでしょうか。

有機農業は、動物たちの世界にとっても自分の生活にもいいんじゃないかと。自分にとっての“正しさ”みたいなものを感じとったのかもしれません。でもその頃は、作る側になるというのはイメージできなかったですね。実家が農家でもなかったし、農業に縁のない私が、農業できるなんて当時は考えが及ばなかった。なので、有機農産物を扱っている会社にいくつかエントリーして、最終的に生協(パルシステム生協)に入りました。

 

-会社ではどんな仕事を?

畜産の勉強をしていたからなのか、精肉部門に配属されました。3年半、精肉工場で勤務した後、営業職とかも経験してどちらも楽しかったんですけど、海外で一度は勉強してみたい気持ちがずっとあって。「今行かなかったら、一生行かない気がする」と思うタイミングで、生協を辞めてカナダへ渡りました。

 

 

25歳、単身カナダ・バンクーバーへ。目的は野生動物保護を学ぶため。だが英語が話せない酒井は入校を果たせず、語学学校に通う。その後、オーガニックファームで働くチャンスがめぐってくる。有機農業の縁をふたたび、運と直感で引き寄せた。

 

 

-カナダに渡った目的は何でしょう。

勉強がしたくて、カナダ・バンクーバーにある野生動物保護を学べる学校に通うつもりでした。ところが、英語が全然話せないので見事に入校の試験に落ちてしまって。それから5か月ほど、語学学校で英語の勉強をしたのですが、住む家を探さなくてはいけないタイミングでウェブサイトを見ていたら、住み込みのオーガニックファームを偶然見つけたんです。すぐ連絡して、電話で面接を受けたら合格をもらいました。すごくうれしかったですね。

 

-なぜ“うれしい”と?

精肉部門で働いていたころ、たまに行く現地の生産者がすごいかっこよく思えました。こちらも精肉のプロとしていいお肉をおすすめしていたのですが、彼らは自分たちの思いをストレートに語れるじゃないですか。ようやく作り手側になれるのがうれしかったんだと思いますね。

 

-オーガニックファームはどんな農場だったのでしょう。

果物や野菜を育てながら、乳牛やターキー、羊も飼っていて、自分たちが口にするものはすべてオーガニック系のもので。自宅も自分たちで作っていて、本当に何もかも自ら作っているようなところでした。あのファーム以上にこだわっている農家は今まで見たことないし、これからも見ないんじゃないかな、と思えるほどです。

 

-働くのが大変だったのでは?

「有機農産物を売っている人々で、有機農産物だけを食べて生きている人ってどれぐらいいると思う?」「少し高い有機農産物を買うのか、体に良くないものを摂取し続けて、病院や薬、サプリにお金をかけるのか、どっちがいい?」みたいな問いかけをバンバン受けていました。正直、精神的にも体力的にも大変すぎて「早めに日本に帰ろうかな」と最初の2週間は思っていましたね。言葉の壁も大きかったですし。でも、だんだん落ち着いてくると「ここにはいっぱい学びがある。ずっと居続けたい」と考えを改めました。

 

 

-農家になる自分も、イメージできましたか。

“百姓”という生き方が単純にかっこいいと感じました。百姓って肉体だけではなくて頭や感性でする仕事なんだなって。生物、物理、化学、経営とか、本当に重層的に、複合的に考慮しながらやっている。純粋な憧れはありましたけど、「私にはできない」と思っちゃいました。

 

-ではなぜその後、無茶々園で農業をすることに?

ビザも切れるし、一旦日本に帰らなきゃとなったとき、そのファームのマネージャーが無茶々園に行くことをすすめてくれたんです。とても尊敬していたマネージャーからすすめられ、その言葉の中でも「とてもきれいな場所」といったフレーズが印象的で。軽い気持ちで無茶々園に連絡をしました。

 

-無茶々園との縁はそのファームがつないでくれたのですね。

そうなんです。今振り返れば、あのファームに出会ったのが人生の大きな転換期だったかもしれません。あそこで働かなければ無茶々園には来なかった。カナダのファームでは本当にやることが多くて、よく仕事をしました。あれに慣れていたら、多少のことはなんでもなくて、自分にとって農業の原点になりました。今でも感謝しています。

 

 

2012年、帰国してまもなく無茶々園をめざし、初めて四国の地に入る。無茶々園の研修制度を利用し、1か月間、研修を経験した。翌年、無茶々園に入社。てんぽ印のスタッフになり、複数の農地を管理し、汗を流す。27歳から気づけば10年。明浜に暮らし、てんぽ印で働く。

 

 

農業は難しい。「だから続けてこられたのかもしれない」

 

-無茶々園がある明浜地区は、愛媛の中でもアクセスが大変な場所です。

カナダへ渡ったことも含めて、あまり考えずに行動に移しちゃうから。路線バスに乗って無茶々園がある停留所に着いたら、地元のおばちゃんたちがちょうどゴミ拾いをしていて。後からなぜか私もその輪に加わって一緒にゴミ拾いをしているっていう(笑)。そんな地域ですね、ここは。

 

 

-無茶々園で働きはじめて、どうでしたか。

私にとって農業の理想があったからこそ、最初は、現実とのギャップに戸惑いました。カナダでは無農薬を実践できていたのですが、日本とは気候など条件がまったく違うわけです。

 

ちょうど無茶々園に入った年、柑橘の実に被害をもたらすカメムシが大量に発生してしまって、農薬を最低限使わないと収量が見込めない状況になりました。それでは農家としても会社としても続けていけない。もちろん思いや理想は持ち続けなければならないし、それは今でもあります。ただ何より、続けていなければならないし、辞めたくないし、負けたくない。そんな風に少しずつ意識が変わってきました。それでも納得するのに5年はかかりました。

 

-ここで10年が経ちました。

やっぱり農業は大変だし、とにかく難しい。人がコントロールできない部分も多くて。ハマりやすいけど、冷めやすいタイプの私でも、農業は思い通りにいかないから続けているのかもしれませんね。毎年、自分が「おいしい」と思うものを出荷しているけれど、納得できる仕事を1年通してできたことがないからかも。あとは、やることが多すぎて気づいたら時間が経っていた、というのもありますね(笑)。

 

-この地域では、多くの人が農業に従事しています。

周りを見渡せば、色んな農家がいます。経営力のある人、栽培技術や愛情が深い人、人間性や感性が素敵な人、そして変わった人。本当に個性豊かな面々です。しかもみんな、共通して惜しみなくノウハウを教えてくれるんです。

 

その中でもめちゃくちゃ広い農地で作物を作っている尊敬する農家がいて、その農家は日々忙しそうにしていない。すごいなって思う人ほどあくせくしてないんですよね。だから私の目標のひとつは、「忙しそうだね」って言われないようになることです。

 

-流れるように“いま”にたどり着きました。自分の選択をどう振り返りますか。

「こうなりたい」「ここに住みたい」と思って来たわけではなく、本当に、流れ着いてふんわり定着したって感じです。それでも、昔の自分の考えややりたいことからそんなにズレていないなと思います。仕事から歩いて帰っていたら、近所おばちゃんらが「おかえり〜」って言ってもらえる。もちろんいいことばっかりじゃないですけど、仕事も地域の暮らしもここが落ち着きますね。

 

 

大規模な有機農場の運営、企業経営型の農業を実践し、それが当たり前になることを目指す、てんぽ印。明浜、ひいては日本の農業の未来を担う画期的な取り組みだ。そんなてんぽ印のメンバーは20代から40代と若い。個性も、強めだ。

 

 

未来に残していくために、私ができること。

 

-てんぽ印はどんな組織でしょう。

代表の村上をはじめ県外から来た移住者が中心で、最近は地元の若い農業後継者なんかも仲間入りしてきて、農家に負けじとがんばっている個性あふれる仲間です。でもどこか共通している面もあって、例えるなら“やっかいな家族”(笑)。そんな感じです。いつの間にか自分もベテランになっていて、てんぽ印を一つの家族とすると、気の強い長女って感じかな。

-スタッフを育てる立場です。

人を育てるなんて、おこがましいです。私はカナダのファームや、その前の生協で仕事に対する姿勢や意識(誇り)のようなものを植え付けてもらいました。当時は厳しくしんどかったというのが本音ですけど、振り返ればよかったと思えます。嫌われたくもないけど、おもねりたくもない、自分が教えられた正しいと思った仕事への姿勢や意識は大事にしたい。それで成果がでたら楽しいですし。後輩たちにはそんなことを背中で見せることができればいいなと思っています。

 

-無茶々園、明浜に今、思うことは何でしょう。

地域では“よそ者”の私を受け入れてもらって、自分にとってそこそこ満足できる生活、暮らしをおくることができています。そんな地域や、この暮らしも、てんぽ印の仕事もいいなって思っています。そんな魅力的なコトを未来にちゃんと残していきたい、つなげていきたい。

そんな思いを共有できる人が増えたら、それはとても素敵ですね。

 

 


取材をしたのは、明浜がみかんの花の香りにすっぽり包まれる頃。小さな白い花を「かわいいなあ、かわいいなあ」と愛おしそうに見つめる酒井の姿がとても印象的だった。この世界に存在する生き物に愛情を向けられる人、なのだろう。てんぽ印の“てんぽ”は、「向こう見ずな」に近い意味の狩浜の方言「てんぽな」から名付けられたという。その屋号のように、直感で人生を歩んできた酒井。仲間に愛情を注ぎながら、一緒に農業の未来をひらいていく。

 

取材・文 / ハタノエリ 撮影 / 徳丸哲也

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