創設者 片山元治コラム
「わしらの農業」
column

片山元治、ウチの親分、どんぐり目玉に金歯がキラリ。

はじめて会った人は「なぜ、そんな事を一所懸命に話すのだろう」と感じてしまう。
たとえば水、地域、学校、石、百姓の暮らし、食べもの、老い、モノ作り、就農、そして農業。

生業の農業を継いだばかりの若い頃に地域の仲間とともに無茶々園を立ち上げる。
無茶々のことならどこにでも出かけていくエネルギー。いろんなコトに興味を持ち実行してしまう。

コツコツやるのは得意ではなく、新しいコトに興味が移ると後片付けは周りの者に。
一番辛抱強かったのはやっぱり奥さんの恵子さん。でもそのバイタリティは人を惹きつける魅力が充分。
「元が言うんやったら」と農家もスタッフも振り回されながら40年が経ちました。

テクノファシズム

2012.08.02

 わずか数ミリの電子回路を埋め込んだ半導体チップ、ハイテク時代の心臓部と言われる重要基礎物質である。それが当初の16キロビット素子では、米国が圧 倒的優位であったが、4、5年後の64キロビット素子では日本が逆転し、256キロビット素子では日本が世界の90%以上を占有してしまった。そして、1 メガビット素子では日本が独占してしまいそうな状態になったことは古い記憶ではない。

 このテクノファシズムへの危機感が、日米半導体戦争を起こし、ヨーロッパの経済感情を逆撫でしたことは周知の事実である。自動車、造船、鉄鋼など技術が 世界一になったとしてもテクノファシズムとしての脅威はあまり感じられない。それがハイテク時代になると新しい技術が僅か数年の間に世界一というより世界 経済の心臓部を独占してしまうのである。つまり、ハイテク時代の技術は、田舎人がついていける以上に、いや、人々が自由、平等、愛など、話し合ったり、考 えたりするゆとりがないほどハイぺースで流れだしたのです

 今までは、科学の発展と、それをコントロールする人間の心とのバランスが少々ずれていても地球はそれを許容することが出来た。しかしながら急激に進む科 学技術の進歩が地球の自浄能力を超え、ただひたすら利益だけを求めて進む産業構造は、人類に贅沢な暮らしと、人類滅亡の危機の両者を背中合わせにしてい る。そして、サイバネーション化が進み、機械にコントロールされ機械に遊ばされようとしているのである。

 科学の発展が人類を本当に幸せにするのだろうか・・・・??

究極の料理論

2012.08.02


巷に美味いものを食べ歩こうとする輩が多くなった。

金余り現象なのか。

身体を動かささないため胃袋は小さくなり、化学調味料・添加物等で、まともな味の 分らなくなった人達が本当の美味しさが分るのだろうか。

美味しさは絶対的なものではなく、相対的なものだ。

本当においしい料理とは適度に汗をかき、腹が 減ったときに食べる料理だと思う。

宮殿で食べる料理と、田舎(生産の現場)で食べる料理。

一生食べるとすれば、本当は誰が一番美味しいものを食べれるのだ ろうかすぐわかる。

浦島太郎論

2012.08.02

 何故!浦島太郎は、ギンギラネオンの輝く男の天国、龍宮城で、より取り見取りのビューティーギャルに囲まれて、最高のオペラや歌舞伎を観ながら、究極のエンペラー料理を食べれるハーレム生活を捨て、オンボロ小屋でその日暮しの生活を忘れられずに帰ってきたのでしょうか。

 そういえば、鰻や鮭のような魚でさえも古里へ帰ってくる。つばくろなんぞは自分の生まれた家まで知っている。アスファルトで囲まれたコンクリートジャン グルで生まれ育った子供達はどんな営巣をするでしょうか。玉ねぎやジャガ芋がスーパーの棚で出来ると思っている子供達はどんなもんでしょうか。 包丁や俎 板を使うことを知らない子供達はどうでしょうか。

 人間が動物である以上、故郷は母の子宮のようなものなのだ。羊水が異常であれば、生まれる子供はどうなるか、幼児期を過ごす環境が異常であれば子供はど んな育ち方をするか。当然のことだが、人は自然から生まれ自然に帰っていく。故郷はより自然と共生する環境が必要なのである。最低子育て期と老人期はいい 故郷で過ごす必要がありそれが田舎の価値なのです。地球上の一番遠い国に行くとしても24時間あれば行ける時代になり、もはや、都市は戦場であり、都市で 育った子供あるいは都市感覚で育った子供は思考行程すらも機械的に管理(サイバネーション)化されつつあり、子供を育てる環境ではなくなったのです。

夜這い論

2012.08.02

命への愛の大切さ、競争社会を越えて、人間らしく輝きたい若者達(子供達)へ

 君達が生きている日本の社会は、モノがあふれている豊かな社会ですが、同時に、ゆったりとした時間や、やさしい人間関係が失われがちな貧しい社会でもあ ります。経済的な利益や効率が優先される競争社会の中で、「人より早く、人より多く」と君達はせきたてられるようにして育てられているのでしょう。

 「君達にとって、学ぶことが、競争の手段となっていませんか?本来、学ぶことは、自分を豊かにし、人とつながり、歴史を作る主体となっていくことである はずです。君達の世代の中には、勉強をすればする程、生きることの意味を見失い、さまざまな場面で、自分以外の人と、比べ、競い合わされ、そして、深く傷 つき、怒りや恨みの気持ちが心を蝕み、痛ましい殺傷事件など、様々な問題を引き起こしています。君達が大人になっていく過程の困難は、大人の生活の貧しさ の反映です。今日の経済的な利益優先の社会では、労働の場から人間らしさが奪われ、自然環境が破壊され、地域社会の人間関係や、生活が壊されています。」

 消費文化の洪水に翻ろうされている君達、何となく、満たされない日々を送っている君達、無茶々の里に来てみませんか!!

 君達が今まで経験したことのない、君達の人生に残る、新しい価値を体験することが出来るでしょう。        


~~~ 無茶々の里、おっちゃん、伯母ちゃんより ~~~


 今、私達は競争社会の中で物質文明に翻弄されて人間としての本当の生き方を見失ってしまっているように思えてならない。私達は、競争と文明に翻弄されない独自の社会的価値観で無茶々の里を構築したい。

 明浜町は300mクラスの裏山と、平地の殆どない段畑と、宇和海に面した陸の孤島のような東西に細長く延びた町である。温暖で台風でも来ないかぎり穏や かな海が目の前にあり、天明、天保の大飢饉の時でも餓死する人がいなかったように、生きていくには大変暮らしやすい場所です。しかしながら、経済は豊かで はなかったようです。何時の間にか、皆で寄り添って生きていく社会が出来、漁に行ったり、反物を売りに宮崎の方まで行ったり、料理人として、魚を担いで泊 りがけで宴会の手伝いをしたり、性に対するおおらかさも加わって、男社会だけれども女が強い社会ができたのではなかろうか。「愛する人が、振り向いてくれ ない、他人の子供を身ごもって、愛する人の子供だと偽る。皆がお前の子供だ言われると結婚しなければならない羽目になる」。うそかホントか定かでないが、 実感として、墓を掘り返せば、遺伝子が違っていても、不思議でないと思う。女一人では生きていけなかった時代、子供はみんなの宝だったのだろうし、その宝 を生み育てる者として、尊厳されたのであろう。

 お金に換えれない地域社会。そんな地域社会が作った地域文化。営々として、後世に引き継がなければならない。

弥次喜太論

2012.08.02

 弥次さん喜太さんがのらりくらりと東海道を旅したのと、農協さんが旗を振ってチイチイパッパとヨーロッパまで出かけるのも同じ旅だがどこが違うか。

 東京から大阪までは新幹線なら2時間半、飛行機で一時間その間を野次さん達は14日かけて旅をしたのである。ハリー・コモナーと言う、偉い経済学者が言 うには、野次さん達の14日の旅と、飛行機の一時間の旅とで、費やすエネルギーの量は大体同じだそうです。つまり文明というものは、科学の力がどうのこう のというけれど時間当たりに消費するエネルギーの量が多くなったに過ぎないのです。

 ところが、人間が使うエネルギーは、台風や地震や火山のような自然循環に組み込まれた消費エネルギーとは質を異にするので環境破壊として後遺症が蓄積するのです。

 旅は道ずれ世は情け、何時の時代もこれが旅の神髄、ファーストクラスの飛行機に乗って5つ星のホテルに泊まり云々、という連中と、野次さん喜多さんの旅とどちらが価値ある旅といえるでしょうか。人生の旅も、同じことが言えるのではないでしょうか。

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