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わしらの農業

2012/08/02 (Thu)

 明浜は、四国愛媛県の西南部に位置し、雨の少ない温暖な気候、山と海に囲まれた風光明媚なところで、古くから蜜柑の産地だった。山海の幸に恵まれ、自然の中で生きようとする者にとって暮らしやすい町である。

 昭和34年、農業基本法が制定され、それまで藷麦の自給生活と、養蚕という現金収入の農業で成り立っていたのが、選択的拡大と称して植えよ増やせよの掛 け声の下、南予一円猫の額ほどの畑にまで蜜柑を植えていったのである(一時期は自家菜園まで蜜柑を植え、胡瓜など野菜を買って食べていた頃もあった)。  結果、愛媛県は、和歌山、静岡を抜いて日本一の蜜柑生産県になったのである。昭和42年頃、植えた蜜柑がやっと成り始めた頃、370万トンという最高生産 量で販売価格の暴落が始まったのである。

 昭和49年頃、栽培過剰による苛酷な産地間競争が進行中であった。わが明浜町は、この産地間競争に生き抜くために、伊予柑、ポンカンなどの高級晩柑類に 更新を進めていた。これらの晩柑類は栽培が難しく、温州蜜柑以上に農薬肥料を必要とした。農薬、化学肥料、除草剤は、確実に生産者の肉体を蝕み、医者通い を強いられた。そればかりでなく、土壌、自然環境が加速度的に破壊され、一昔と比べ海も山も畑も川も生物の生息状態が目に見えて変化した。

 それでも百姓は、農薬は農の「薬」でなく農の「毒薬」であることを知らず黙々と働いた。なぜ、DDTが、BHCが、ホリド-ルが、水銀剤が使用禁止に なったのかを深く考えないのだろうか?(農薬のビンや袋には、使用時にはマスクをして、体に触れないよう合羽を着るように、収穫前何日以内は使用しないよ うに、との表示がされてあった。まさに毒薬の使用規定と同じと思うのだが。挙句の果て、昔の薬はよう効きよったが、今の薬は濃くしないと利きが悪いと嘆く のである・・・)

  価格暴落下の蜜柑生産者は、鼻の先にぶら下げられた人参を食べようと必死に走る馬のように、金儲けのために日夜汲々とするようになり、植物や家畜を育てる喜びの汗は、苦痛の汗に変わったのである。

 この状況目の当たりにして、我々は近代農業に疑問を抱き始めた。

 百姓の特権は自然の中に融け込んだ生活、額に汗して働く喜びを以て、一生を土と親しみ、土に還ことではなかったか。農薬や化学肥料で命の切り売りをする のが農業なのか。それにしても、女郎蜘も、キリギリスも、コウロギもバッタも、カニも、貝も、魚も、蜜柑を作るようになってめっきり減った。これらの生き ものは子供の玩具であり生きた教材であった・・・。

 その頃世間一般でも有害食品、汚染、公害が社会問題となり始め、朝日新聞に連載された、「複合汚染」が大きな反響を呼んでいた。我々が「有機農業」の名 を目にしたのもこの小説だった。夜な夜な酒を飲むと、「なんで高校もない、医者もいないこんな所に住みたいのか。このままの農業じゃ駄目だ、何かやろ う・・・。いい汗のかける百姓を我々はやらなければならないのだ。」夜が更けるまで何十回、何百回この言葉を繰り返したことか・・・。有機農業という言葉 を理解できてないうちに、無茶々園の原型はその時既に生まれていた。

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