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無茶々園をぼくらが いま、えんえん語る【第12回】

2022.12.17

ピンチならば、まず動け。

真珠、そしてスジ青のりの挑戦。

 

無茶々園 いまのひと⑫

株式会社 地域法人 無茶々園 理事

佐藤真珠 株式会社 専務取締役

佐藤 和文  43歳

 

 

地域一帯が柑橘の産地になっている無茶々園。実は、柑橘だけではなく、地域の産業である真珠や海産物なども扱う。無茶々園の理事として、真珠部門に携わりながら、家業の真珠会社で働くのが佐藤和文だ。近年の、アコヤガイ稚貝の大量死で真珠界の先行きが見えない中、新たに挑むのがスジ青のりの養殖。会社のために、地域のために、走る。

 


 

そこに思いはあるのか。葛藤からの転職。

 

-無茶々園の縁は?

無茶々園の創始者である片山さんは、私の父のいとこにあたります。子どもの頃から、片山さんから無茶々園がどんなことをしているのかを聞くたびに、「楽しいことをしているな」と感じていました。

 

大学生の頃、片山さんと一緒に1週間ぐらいベトナムへ行きました。向こうでも真珠をやっているからって誘われて。片山さんはユニークな人で、旅自体も楽しかった。そんな経験もあって元々、無茶々園にいいイメージを持っていました。県外の真珠メーカーに勤めていたぼくに、無茶々園の大津社長から「うちで働かないか」と誘われたとき、二つ返事で引き受けました。

 

-真珠メーカーに就職した理由は?

大学では、当時は珍しかったベンチャー企業について学びました。「みんな会社を起こすぞ」という士気のある研究室で。ただ、だれも起業せず、就職したのですが(笑)。

 

長男なので、小さい時から父の真珠会社を継ぐものと思っていたけれど、一度は県外に出てみたくて、真珠の会社に就職するのだったら親も賛成してくれるだろうと思って、大手の真珠会社を3つ受けて一社から内定をもらいました。

 

 

-実際に働いてみて、どうでしたか。

販売、商品管理の仕方をはじめ、すべてが勉強になりました。でも長続きはしなかった。入社した頃に、“バブル”がはじけて真珠が急に売れなくなって、バスツアーみたいなのを担当することになったんです。お客さんを集めて旅行をするのですけど、最後には真珠の店に連れて行って宝石を売るというセールス方法で。1年目に「天職かな」と思うぐらい成果を上げたのですが、次第にその売り方に違和感を覚えるようになりました。父もその会社に真珠を卸していたのもあって、せっかく両親が一生懸命作ったものをそんな売り方で送り出すのはどうなのだろうかと、ずっともやもやしていましたね。

 

高校を卒業後、愛媛大学に入学した佐藤。法文学部で経営学を専攻し、卒業後は県外に出て、大手真珠メーカーで働いた。持ち前の人懐っこさと気配りで営業マンとしての頭角を表すものの、次第にその売り方に疑問を抱く。無茶々園の転職は、そんなタイミングだった。大手の真珠会社を退職し、東京の米国宝石学会の鑑定士の学校に1年通い、鑑定士の資格を取得。26歳のとき故郷に戻り、無茶々園に入社した。

 

いろんな関係がフラットでいい、という働き方。

 

 

-無茶々園ではどんな仕事を?

真珠の営業ですね。真珠の知識のある専門の人がいなかったので、「専門の人を」ということで、ぼくに声がかかったわけです。ただ当時、無茶々園は人材が圧倒的に不足していて、半分以上はみかんの仕事をしていました(笑)。知識がないから一から勉強して、フォークリフトに乗ってみかんを運んだり、選果をしたり、本当になんでもしましたね。

 

-真珠については、前職のやり方とは違いましたか。

お客さんとの対面で販売するのは得意だったのですが、自ら企画して、営業をするのはやったことがなかったのでとても新鮮でした。前の職場は大きな組織だったから指導も行き届いていて、やり方を一つ一つ教えてもらいました。でも無茶々園では、上司がExcelシート1枚を渡して、「自分で考えてやってみてね」って言われて。「ウソ〜」と思いました(笑)。すべてが自分次第。鍛えられましたね。

 

-前の組織との働き方の違いは。

前の会社では、仕事とプライベートがはっきり分かれていました。お客さんとの関係も客と店員と、明確に線引きがありましたし、社内でも上下関係がありました。でも、無茶々園って何もかもフラットなのです。生産者同士もつながるし、取引先とはもはや仲間。組織の中でも地域の中でも分け隔ても上下関係もない。それが、とても居心地がよかったですね。

 

6年間、無茶々園で働いたのち、退社。当時、アコヤガイ稚貝の大量死で真珠が育たず、産地全体が悲鳴をあげていた。佐藤の父の会社「佐藤真珠」も同じこと。自分ができることはないか-。立て直しのために30歳、佐藤真珠に入社する。以降、無茶々園の理事との、二足のわらじをはく。

 

 

みずから“重いもの”を負う。それが自分の生きる道。

 

 

-無茶々園を退社して、佐藤真珠に入社した理由は?

当時、アコヤガイの大量死が毎年のように起きていて、一帯の真珠会社はどこも苦しくなって、「どうにかしないと父の会社が潰れてしまう」と、強い危機感を持っていました。真珠の入札会に出すだけの商売から、無茶々園でも扱えることになったのだけれど、それでも会社の業績が思うように上がらなくて、「給料10万円でもいいから働かせてくれ」と父にお願いしました。無茶々園でも引き続き、真珠部門を担うことになり、忙しさが倍増しましたね(笑)

 

-そもそも、真珠に対する思い入れがあったのでしょうか。

子どもの頃から父を手伝っていました。真珠の「核入れ」をする前に、貝の口を開けるんですけど、作業しやすいように栓を刺すとか。小学校高学年か中学校になったら正月の三が日でも貝を取りにいく仕事についていかなきゃならなくて。子どもながらに「大変だな」と感じてはいましたが、思い入れが強いというわけではありませんでした。でも、自分で育てたものを販売するようになってからは、真珠養殖への思いがどんどん深まっていきました。

 

-立て直しのためにどんなことをしたのですか。

真珠は海の環境が良くならないとどうにもならないのですが、真珠加工、経理面で工夫する余地はあると思っていました。「こんなのがはやっているから作ってほしい」と取引先に言われたらすぐ対応し、ネックレス、ペンダント、イヤリングなど、要望があればすぐに制作しました。同時に、債務の整理も進めるうちに会社の売り上げが少しずつよくなっていきました。

 

入社して10年、佐藤真珠の経営がようやく軌道に乗ってきた。その矢先、ふたたびアコヤ貝の大量へい死に見舞われる。事態は、業績悪化だけではなく従業員の仕事そのものを奪う。状況を変えようと、佐藤は立ち上がった。着目したのが、スジ青のりの養殖。青のりの中でも香り高い高級食材の事業化に2020年、乗り出した。

 

 

従業員を守るため、新しい仕事をつくる。

 

 

-そもそも、「スジ青のり」とは。

本来なら、徳島県で海面養殖のスジ青のりが100トンぐらい採れていたらしいんですけど、近年、環境の変化で量が採れなくなり、今は10トンか20トンくらい。「青のりがとれない」ということで高知大学が養殖技術を確立し、特許をとった経緯があります。スジ青のりの陸上栽培は今でも全国で10社ぐらいしかやっておらず、まだまだ珍しい栽培方法です。

 

-スジ青のり養殖に注目した理由は。

地道にやってきてようやくこれからというときに、またアコヤ貝の大量へい死が起きて、お先真っ暗になりました。コロナ禍で流通も止まって、真珠産業は過去最大の危機的状況に陥りました。それに、真珠がそもそも育たないから、従業員のやる作業がどんどん減ってくるんです。真珠や世の中が回復するまでだけでも、何とかしなければいけない。そう思いあぐねていたところ、宇和島・遊子の「スリーラインズ」さんがスジ青のりを養殖しているというのを聞いて、見学に行ったんです。そこには、理科室にあるような実験用のガラス器具がたくさんあって、「自分にこれができるのかな」とたじろいだのですが、悩んだところで後がない。とにかくやってみようと決めました。

 

-養殖方法はどこで学んだのですか。

スリーラインズさんから、高知大学がスジ青のりの養殖を研究していると聞き、先生を訪ねました。「漁師に教えても全員うまくいかなかったから、今は教えるのをやめている」と断られて。それでもあきらめきれずに何回か通ったところ、「佐藤さんは真珠の養殖で核入れとかやっているから手先が器用そうだね。やってみますか」と言ってもらえて。2020年4月に、高知大学と共同研究の契約を結び、一から教えてもらいました。

 

 

口先ではない、地域のため。

 

佐藤は毎週、車で片道約4時間かけて高知大学に通った。半年間、スジ青のりの養殖を学ぶと同時に、多額の資金を投じて施設を整えていった。進むほか、道はない。そう信じて。

 

-どのようにスキル習得を?

車で片道4時間かけて毎週のように高知大学へ通って培養方法を教えてもらいました。最初は、説明をされてもさっぱり分からなくて。ビーカーやスポイト、シャーレなどの器具を使ってスジ青のりの種を培養するのですが、不慣れなことで失敗ばかり。開けても暮れてもスジ青のりのことが頭を占める。40歳も過ぎて研究室に引きこもり、自分は一体、何をしているのだろう?と我に返ることもありました。肉体的にも精神的にも限界になって挫折しかけたこともありましたが、設備投資もしたし、社員もいる。失敗は許されません。

 

わからないながらも、大学の先生と連絡を取りあって、自分の方法を改善していきながら、自分で種を取って、育てていきました。スジ青のりは真珠以上に管理が厳しくて、休みもとれない。でもそのうち、自分の手によってどんどん増えていく青のりを見ていたら、何だか楽しくなってきてね。気づけば技術が伴ってきて、自社培養もできるほどになりました。

 

 

-スジ青のりの需要はあるのでしょうか?

去年(2021年)は3〜4万パックほど売れました。それでも売り上げは真珠の1、2割ほどです。真珠の仕事がなくなってきた代わりに、社員にはスジ青のりの作業をしてもらうことができているので、新しい仕事づくりという意味で、数字以上の意義があると思っています。

 

-スジ青のりに真珠。休まる暇がまったくなさそうです。

毎日、朝4時半くらいから働いています。スジ青のりの準備をして、5時ぐらいから真珠の核入れの準備をして、それから妻と一緒に4人の子どもたちにご飯を食べさせて、学校の準備を見届けてからまた仕事に戻ってという怒涛の日々を過ごしています。

 

-今後の展開は?

あと一つ、近くにスジ青のりの工場を作る予定です。徳島からUターンする若い子がいるので、新工場で働いてもらって仕事のパートナーにしたいと考えています。

 

スジ青のり以外にも、もし明浜に合う新しい産業があるのなら、ぜひ挑戦してみたいですね。そうやって産業を生み出し、地域に広げて、地域の産業として根付いていくことが理想です。

 

-何のために、身を粉にしているのでしょう。

地域の発展ですね。こっちに帰ってきたいという人がいても仕事がなかったら戻れない。その人たちが働けるような場所がこの地域にあること。そのために今、僕ができることは精一杯やりたいと思っています。

 

 


 

産業と風土、文化、暮らしが深くつながっている明浜という地域。そこに生きる人たちは、“地域のため”に自然と身体が動く。まるで、遺伝子に組み込まれているかのように。中でも佐藤は、理屈抜きで地域の未来を考え、地域のために全力を注げる人。先を嘆くぐらいなら、動け。そう口にはせずとも、行動で示す人だ。取材後、まもなくみかんの収穫期を迎える明浜を見渡しながら、彼がこの地に与えるものの大きさを、かみしめた。

 

取材・文 / ハタノエリ 写真 / 徳丸 哲也

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