暮らす 働く

無茶々園をぼくらが いま、えんえん語る【第1回】

2021.08.04

暮らしも仕事も地域とともにある。

だからここを選び、ここで生きていく。

 

 

無茶々園 いまのひと①

有限会社てんぽ印 代表取締役社長 村上尚樹(39歳)

 

愛媛、明浜地区。峠を下りると、眼前に“明るい浜”がスパンと広がる。急斜面をみかん畑が覆い、細い農道を白い軽トラックが行き来する。みかんとともにある地域で、みかんと地域とともに歩む、無茶々園。その連合組織のひとつが、栽培、加工などに取り組む「有限会社てんぽ印」だ。社長の村上尚樹は、無茶々園のあり方と明浜に惹かれ、石川県から、明浜に来た。それから、この地に暮らし、働き、15年。村上の想いを、訊いた。

 


 

多様な価値がある。だからここを選んだ。

 

 

-なぜ、縁もゆかりもない明浜へ?

 

まず惹かれたのは明浜の景色ですね。浜に向かって山が拓いていて、海も空も青くて、単純にきれいだなと。それに、無茶々園の活動そのものにも衝撃を受けました。仕事と生活が表裏一体な農家の生業、暮らしぶりがあって、全国各地からいわゆる“ダメな人”、“変わり者”、“いい加減”な人から超インテリまで本当にいろんな人が集まっていました。

 

ぼくがここを選んだ基準は、一つではありません。「風景がいい」とか「農業がやりたいから」とか、何か一つではなくて、地域とのつながりだったり、風景のすばらしさだったり、農業や地域の可能性だったり、いろんな価値があったから選びました。価値を見出したのが一つだったら、それが折れたときに終わっちゃうんですよ。

 

10代から20代初めの頃、得体のしれない不安や寂しさ、焦りを抱えていました。ぼくが来たとき、地域の人がおもしろがって話しかけてくれて、どこの馬の骨ともわからないぼくにいろんな話をしてくれました。安心感のある人と人とのつながりみたいなのがベースにあるっていい暮らしだなあ、と思いました。

 

 

-安心感のある人と人とのつながり、ですか。

 

人と人とのつながりがあるなかで、それプラス、安心感がある人とのつながりがあるってすごいいいなあと。これまで暮らした場所で味わった人と人とのつながりとは、まったく異質のものでした。安心感のある人と人とのつながりがあるから、寂しくないんですよね。家族という単位の中で感じる安心感に近いのかもしれない。ただ家族は無条件で絶対ではないとも思う。依存や期待なんかが強くなりがちだし。ぼくが安心できる暮らしは、地域という単位で人と人とがつながることなのかと、腑に落ちたんです。

 

村上は、近畿大学経済学部に在学中、映画サークルで仲間と自主映画を制作しながら、テレビ番組の制作会社でアルバイトをした。その会社で内定を得たのち、旅に出た。そのとき、高校時代から関心があった農業という生き方に触れ、大きく人生が動く。

 


選んだのは、生き方だった。

 

-“田舎”への関心はどうやって生まれたのですか。

 

どうしても実家を出たくて、高校のラスト1年は大学に入るためにちゃんと勉強しました。都会の雑多な雰囲気が好きで、大阪か東京かで選んで、近畿大学へ行きました。ずっと石川・金沢という地方都市にいたからかもしれません。生まれ育った新興住宅地みたいな場所を中途半端だとも感じていました。

 

90年代の日本映画が好きで、映像に出てくるような大都会への憧れと、一方で、スタジオジブリの作品なんかに描かれる、田舎の生活や日本の原風景にも心惹かれていましたね。高校時代から友人とかに、この先暮らすなら、都会か「本当の田舎」がいいなって言っていたんです。

 

 

-無茶々園との出会いは?

 

在学中の4年間、報道記者とカメラマン、アシスタントと一緒に現場を回るアルバイトをしていました。厳しく育ててもらって、信頼関係もあり、ここに就職するものだと思っていました。

 

大学4年生の頃、時間を持て余していた時期があり、あったかいところを旅しようと思いたちました。お金がないから、何度か野宿も経験したけれど、しんどかったし。だったら、農家さんとこで農業しながら泊めてもらうってどうなんだろうなって。

 

大阪は人も温かいし、新世界とか雑多な感じも好きで居心地がよかった。ぼくの当時のホームは大阪でした。ただ、もう一方の「本当の田舎」も味わってみたかった。単純ですが、田舎といえば農業のイメージで、大学の図書館で、農業研修の受け入れ先を調べました。農業研修なんてほとんどなかった時代、ネットサーチで引っかかったのが無茶々園でした。

 

-最初に訪れたのが無茶々園だったのですね。そのまま就職を?

 

無茶々園に就職(就農)するまでの2年間、九州から長野まで複数の農家や農業法人を、研修という形でめぐりました。いろんな人といろいろな話をしていく中で、農業というものさしではなく、自分がこの先どういう生き方をしたいかを考えるようになりました。無茶々園がほかと確実にちがったのは、主体が会社や個人ではなく地域というところでした。24歳のとき、無茶々園のある明浜で豊かに楽しく生きていけたらと移住してきました。

 

村上は2006年、無茶々園の任意団体「ファーマーズユニオン」のスタッフになる。2016年「有限会社ファーマーズユニオン北条」の代表に就任、そして2018年、「有限会社 てんぽ印」に社名変更。現在、代表として9人の仲間と農業生産、加工などに取り組む。地元デザイナーを起用したパッケージデザイン、有機農法など、こだわりを持った加工品は首都圏を中心に人気を集める。松山市内でてんぽ印の直売所を開くのが、近い目標の一つだ。

 

 

-実際にファーマーズユニオンで働いてみて、感じたことは。

 

“稼げていない”という課題です。「楽しければいいじゃん」だけでは続けていくことが難しくなる。各地を回った時に、いろんな人から言われたのは、「お金を稼ぐのは目的ではなく条件なんだから、そんなことはとっととクリアしてやりたいことやろうよ」ということ。ぼくは、ただ仲間をつくりたかったから、そのために利益を上げなければならなかったんです。

 

 

熱量を持った陰キャが集まれば最強、説。

 

-仲間がほしい理由は。

 

大学のとき、自主映画をつくるサークルに入っていました。役者をやったり制作をしたりと、分業してそれぞれの取り柄や強みを生かしながら、みんなで一緒に何かをつくる楽しさを知りました。どうせ何かをするなら、ぼくは一人じゃなくて、みんなでやりたい。てんぽ印でも、それぞれ農場とか作目とか持ち場があって、一人一人が主役で、ときには脇役になって、群像劇みたいな働き方をしたいのです。

 

-てんぽ印にはどんな人がいますか。

 

東京や関西を中心に全国から移住してきた24歳から35歳までの仲間が今、9人います。無茶々園のホームページは、きれいに作り込んでいますけど、実際の仕事は土くさくいものなんですよ。彼らは、きれいとは言えない宿舎で、土まみれになりながら農業をしていても、ここにすっと染まるんですよ。そして、なぜか「陰キャ」(※)ばっかり。「何でお前ら、そんな陰キャばっかなん?」って聞いたら、それは採用を決めてる担当者(村上)が隠キャだからそうなるでしょって(笑)。

 

※「陰キャ」とは内向的でおとなしく、思慮深い一面もある一方で、コミュニケーション力は高くなく、内面でふつふつと燃え上がるものを持つ、がたまにそれで火傷を負い、一人で落ち込み一人で完結していく。後ろ向きでも前に進もうと歩いていく。そんな性格のひと。(村上談)

 

そんな彼らが彼らにとって「いい仕事、いい暮らし」をして、次に都会から来る子たちに「かっこいいな、いいな」と思われるようになればいい。こういう生き方もいいよな、と思われる“生き方モデル”を示せる人間になってほしいし、ぼく自身もそう思われたい。そう思われて、そこに共感した仲間を増やしたていきたいですね。陰キャが熱量持ったらおもしろいよってことを証明したいのかもしれませんね。

 

 

-“田舎”には都会から来る若者たちにとってわずらわしさもあるのでは。

 

そうです、本当にそうなんです。明浜でも、地域行事が多いんです。ぼくも、来た当初は義務感でやっていたのですけど、ただ一年、一年と重ねていくと、それが当たり前になってきて。行事から季節を感じたり、安心を感じたりするようになる。そう強く感じるようになったのは、ここで子どもが生まれてからですかね。

 

-人をまとめる立場として、どんなことを心がけていますか。

 

大きな枠のベクトルを示すのがぼくの役割で、あとは基本、「やって」です。目標だけを与えて、あとは個々に考えさせる。確信めいてやっているわけではありません。ぼく自身、そうやって今があるし、それしかやり方を知らないから。

 

でも、そんな環境を超えてきた子らは強いんですよ。ぼくの育て方に対して少なからず不満を持っている子はいると思っています。ただ、もし仕事で失敗したとしても怒らないです。だって、失敗に責任を持たせるほど、ちゃんと指示をしていないですから。人や己自身を傷つけたときぐらいですかね、怒るのは。そのときは怖いっすよ。

 

-働く上で大事なことは。

 

この仕事は、積極的にコミュニケ―ションを図らなくともある程度できますが、それではダメだと思っています。自分で作って自分で食べるだけならいいけれど、それを食べて喜んでもらう過程には必ずさまざまな人が関わっているし、自分が使う道具、機械一つにも人が関わっています。それに、どこまでいっても、人間は一人じゃ生きていけない。てんぽ印のスタッフとして来る若い子たちに対しては、まず、自分たちがここにいられるのは先人があってのことだから、その土地や地域の人たちに感謝というか事実認識みたいなものを持つのは大事だと伝えています。

 

 

明浜に生き、15年の月日を重ねてきた。いま、農業をやっていくために自分自身がやらなければならないことはわかっている。自分のため、が結果、地域のためになる。それは、ここだから。

 

 

農業は、いい仕事。

 

-農業という仕事をどう捉えますか。

 

農産物は、特に柑橘栽培にいたっては一年周期の栽培体系の中で収穫は一度きりです。その一度のために、月毎に作目の生育に合わせた作業をします。気候、災害、こちらの作業ミスとか、どこかのひと月の作業を失敗したら一年がパーになる。産業的に効率は悪すぎます。

 

でも、農業は“いい仕事”です。自分の成長が感じられることと、だれかの役に立っていることを実感できるから。この2つの実感があればいい仕事だと思っています。作物が育っていくのを目の当たりにしたり、昨年までできないことができるようになったり、だれかに食べてもらって喜んでもらえたりしたら、それだけでいい仕事になります。日々そんなにドラマティックではないし、しんどさももちろんある。でも一年たったら不思議と、「良かったなあ」と、充実感に満たされるんです。

 

 

-課題はありますか?

 

現実的にリアルに農業をしていて感じる不安は、高齢化と人口減少と異常気象なんですよ。気候は10年前と全然違うし、高齢化によってまちが少しずつエネルギーを失っているのを感じています。田舎はどんどん人が減っていく。すごく恐怖を感じます。

 

病院、学校、道路や街灯なんかのインフラも、地域が地域として存在するために必要です。じゃ、インフラはなぜ作られるかといえば、単純に人の数なんですよね。ここに5人しか住民がいなかったら、道も学校も病院もなくなります。そのために人の数がいる。人を増やさければならないんです。

 

 

自分の幸せのかたちは“田舎”にある。

 

-なぜ地域を守ろうと思うのですか?

 

いろいろこじらせていた20代、思ったんです。地域も社会も国も地球も、ほんとはどうでもいいのだって。自分の幸せのことだけ考えたらいい。そして、本気で自分の幸せを突き詰めていけばいいと。するとおのずと、隣にいる人が目に入る。その人がつらそうだと、自分が幸せになれないのだと気づいたのです。

 

まずは自分から、そして子どもやパートナー、それから所属するコミュニティ、地域と、小さい単位から順番に幸せであればいいです。世のため、人のため、地球のためって言って、近くの人を泣かせていたら、なんか違いますもん。

 

田舎にいると、隣でひもじい思いや嘆き悲しむ人がいたら、心がざわざわするんですよ。人が少ない分、人一人の存在や価値というものが大きいのかもしれません。もはや、避けることができないもので、自分が“抱擁”するしかありません。

 

田舎ってそこに暮らす人に、届きやすい距離感なのかもしれないですね。田舎に生きるとは、その距離感の中で暮らすということなのでしょう。そしてそれこそ、ぼくが地域に生きることにこだわる理由なのだと思います。

 

 


 

明浜で生まれた娘には、集(しゅう)と名付けた。村上自身、人が集まるのが好きで、人が集まる暮らしや仕事が生きる指針になっている。それは明浜に生き、無茶々園で働くからこそできたものだ。集まる。その先に広がる可能性は、無茶々園という組織がすでに示している。だが、村上の想い描く「集まる」は似て非なるものなのかもしれない。ひとりひとりの幸せの濃度を高めつつ、もっと自由で、もっともっと多様な世界に。そんなの理想だよね、で終わらせるつもりはない。

 

取材・文:ハタノエリ 撮影:徳丸哲也

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