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無茶々園をぼくらが いま、えんえん語る【第5回】

2021.12.08

力まず自然体で、

社会のためのビジネスをする。

 

無茶々園 いまのひと⑤

株式会社 地域法人 無茶々園 

専務 細島 毅(50歳)

 

 

埼玉で働いていた2001年、当時の役員から誘いを受けて無茶々園へ。入社3年目から専務を任され、組織と仕事を整えてきた一人が、細島 毅だ。物心ついたときから現在まで、目の前に起きていることに問題意識を持ち、人と物事に対し、真摯に取り組んできた彼の歩みと、これからを訊いた。

 


 

人との出会いと自然好きが、新天地へ導く。

 

-なぜ無茶々園に?

埼玉で働いていたとき、無茶々園がある愛媛・明浜出身の妻と出会いました。彼女の父親は、無茶々園の生産者だったので、現社長の大津が埼玉に出向していた当時、あいさつに行ったんです。そしたらおもむろに、「無茶々園に来いよ」って誘われて。その場では断ったのだけれど、一年後にふたたび声がかかったとき、田舎暮らしをしたかったのと妻の故郷であることと、いろんな思いが重なって無茶々園に転職しました。無茶々園に入りたくて移住してきたメンバーと違って、入りたくて入ったわけではありませんでした。

 

 

-無茶々園のことは知っていましたか?

有機食材を宅配する組織で働いていたのですが、取引している生産者の一つが無茶々園でした。どんな団体かはまったく知らなかったけれど、他の産地と比べて、みかんがズバ抜けておいしかったのを覚えていますね。

 

-前の仕事と無茶々園との違いは?

前の職場では、出張のときしか生産者に会えなかったのですが、ここでは、生産者と直で仕事ができる。会社の目の前にみかん山が広がっているんですから。それは私自身が望んでいたことでした。売れるものを仕入れるのではなくて、目の前の山にあるものをすべて売り切る。入社仕立てのころはプレッシャーもすごかったけれど、売り切ったとき、農家さんから「今年は腐らせるかと覚悟していた、よく売ってくれたな」って声をかけられたときは「よっしゃ!」って心の中でガッツポーズしました。達成感がありましたね。

 

細島は、東京生まれの千葉育ち。森で昆虫をとったり、海で魚を釣ったり、自然が大好きな少年だった。父親と向かった海でたびたび目撃したのが、青潮の被害で無惨に浮かぶ魚の姿。次第に、環境への意識が芽ばえていく。海の研究を求め、東京水産大学(現・東京海洋大学)へ。自分の思いにまっすぐ、齢を重ねていった。

 

-水産大学で学んだ理由は?

親父に連れられて海釣りによく行っていました。海も釣りも大好きになったのですが、ハゼとかが苦しそうに浮いているのを何度か目撃したのです。原因は、青潮です。その光景が頭を離れず、「環境をなんとかしたい」「海について研究したい」と考えるようになりました。

 

赤潮は大量のプランクトンが発生したもの。青潮は、海底で有機物を分解するのに酸素を使い果たした水塊が、酸素を含まない状態になることで硫化水素を発生させます。秋頃になると、酸素の無い硫化水素を含む水塊が底から上がってきて、すべての海の生き物を殺すんです。大学時代は、青潮についても研究しました。

 

-研究につながる仕事には就かなかったのですね。

希望する環境系の会社はことごとく落ちてしまって。最終的に、環境意識がある団体に就職しました。

 

 

農業は化学。そこに“おもしろさ”がある。

 

 

-どんな仕事だったのですか。

近畿を中心に、産地まわりを担当しました。農業って経験と勘も大事だけど、化学なんですよね。それに、陸から海を汚すわけです。農業が海に与える負荷って結構大きくて、農薬のことなど環境を考えてやっている、熱量を持った農家さんが多く、彼らの話を聞くのが楽しかったですね。

 

でもそのうち、仕事が営業だけになって、産地に対して嫌なことを言う立場になっていると気づきました。“有機”だからしょうがないのに、「見てくれが悪い」とか、お客さんの声ばかりが聞こえてくるようになると、「産地に行けるような仕事をしたい」という希望が強まっていきました。

 

-それも、無茶々園を選んだ理由なのですか。

そうですね。自然が大好きなので田舎暮らしへの憧れもありました。実際にこっちへ移住してきてゆっくりできるかな、なんて思い描いたら埼玉時代より忙しくて(笑)。年収は下がるし、3カ月ぐらいは休みがなかったんじゃないかな。今でこそ無茶々園は“超ホワイト”企業ですけど、ぼくが入社した当時は組織化されてなかったので働き詰めでした。

 

-20年前のことは、皆さん「ブラックだった」という割に楽しそうに話しますよね。

日が暮れるまで選果や荷造りなど現場作業をして、それから事務作業や生産者とやりとりしていました。大変だったけれど今思えば、仲間もいたので充実した時間でしたね。

 

-無茶々園で働く上で、手応えを覚えたのはいつごろでしょう。

3年目ぐらいからかな。柑橘の売り方もわかってきたし、自分のやりたいことが形になっていろんなものが具現化されてきたころです。

 

入社してしばらくは選果場で働いていました。当時、同様の団体の中では先駆けて、光センサーを導入しました。通常は、糖度などの測定にしか使わないセンサーを、「こんな栽培をしたらこの糖度になりました」という結果をデータ化して、生産者にフィードバックしていきました。

 

-生産者と二人三脚だからこそ、できる使い道ですね。

そう言えますね。これまでは経験と感覚でしかなかったのが、栽培の結果を糖度や正品率という数値で比較ができるようになったんです。施肥、剪定の時期、摘果などをどう工夫すればいいか、数字として説明できるようになった。そこにおもしろさを感じました。

 

 

地域のためとは何か、を肌で感じる。

 

 

-無茶々園は、地域のためにある団体。この点については理解できましたか。

入社してすぐの頃だったか、柑橘で利益が出たときに生産者に配ったんです。そしたら当時の代表から「ふざけるな」と怒られたんですよ。「100万は100万の価値があるんだぞ。100人に配ったら1万円になってしまう。100万の価値を持ってお金を使え。将来、困りごとが必ず起こるから、今は文句を言われても未来のためにお金を使え、彼らのためになるから」と。その当時は「何を言ってんだろう」と理解できなかったのですが、地域に作った老人ホームは、高齢化が深刻になった今、地域に不可欠なものになっている。地域のためとはいえ、そこまで見越してできるのはすごいことですよね。

 

-明浜の暮らしはどうでしたか?

たまの趣味だった海釣りは、「その日の夕飯を求めて」になりましたね(笑)。子どもと一緒によく釣りをしました。15年前ぐらいに、地域の区長もやらせてもらいました。“よそもの”にもかかわらず、です。でもこの経験も楽しかった。区費を集めて計算して、自分が暮らす地域のために動く。まさに“自治”です。

 

この“仕事”は、社長から「無茶々園の仕事より、区長の仕事を優先でいいから」と言われたぐらい、無茶々園がスタッフに求めているものです。

 

2001年に入社し、20年が経つ。近々の5年間は、その高い実務能力を出向先で発揮した。東京・新宿に本社がある生協で、生産者に近いところから、消費者に近いところへ。「声を受け止める立場が変わったことで、見えてきたことがある」と細島は言う。

 

-都会暮らしに逆戻りでしたね。

通勤ラッシュがとにかく嫌で、田舎にきたのにね(笑)。でも、改めて外から無茶々園をみることができて、気づいたことがありました。

 

無茶々園は生産者団体なので、当然、生産者第一です。近年はカメムシが異常発生するなど、環境変化に対応するため、どうしても農薬の量が増えています。でも、無茶々園のものを求める消費者は、農薬を極力使わないでほしいと考えています。また、市場価格が上がる中で、生産者は値上げを要求します。でも、消費者は少しでも安さを求めます。仮に価格を上げるのだったら、価格に見合うものを作ることが必須です。

 

生産者の声だけではなく、消費者のニーズと声を拾い、どうバランスをとっていくのかが改めて大事だと感じています。

 

 

300年先を考えて、今できることをやる。

 

 

-世の嗜好も気候もめまぐるしく変わっていますね。

いま、無茶々園では「30年ビジョン」を構想しています。100年、300年と組織が生き残るための“これからの10年”です。明日のことさえ、どうなっているのかだれもわからない時代です。でも、傾向から考えることはできます。

 

-傾向とは。

一つが、消費傾向です。青果の消費が減っている一方、加工品はこの10年で2倍以上に伸びています。当然、加工品に力を入れていくのですが、加工品だとどうしても生産者の手取りが少なくなる。この課題を解決するために、皮の利用とか、青果を長期で売るための新しい貯蔵施設を作るなど、手を打っていかなくてはいけません。野菜もニーズがなくなることはないので、もっと力を入れていく必要があります。

 

-温暖化による環境変動についてはいかがでしょう。

環境に適応しやすいポンカン、レモンなどを増やしています。品目は違いますが、ブルーベリーなどもおもしろいと思っています。“種”をまかなきゃ、10年後に芽は出ません。まき続けなきゃいけない。やれることを、やるだけです。

 

多品種、多品目を栽培する目的はもう一つあります。若手職員の「工夫」や「やる気」を育てるためです。今、柑橘は完全に売り手市場で、何もしなくても売れちゃう。私が入社した年、年越しで温州みかんを200トンも余らせてしまって。他の柑橘も出てきている中で、1カ月以内に売らなければいけない。尋常じゃない事態に、売り方の工夫が生まれるわけです。だからあえて、新しいものに挑戦して売らざるをえないようにする。それが、若手のチャレンジ精神を起こすきっかけになれば、という思惑もあります。

 

 

だれにとってもG O O Dなビジネスをする。

 

 

-今、細島さん自身が力を入れていることは。

5年間の出向から戻って浦島太郎状態のなかで、新たに任せられたのが「ベトナム事業」でした。田舎はどこも、労働力不足です。海外の人に頼らざるを得ません。今無茶々園には20人ぐらいのベトナム人の研修生がいますが、ただ研修して終わりではなく、彼らが日本で学んで国へ帰っても、ノウハウやつながりを生かせる仕組みをつくろうという構想です。

 

-具体的には何をしているのですか。

今は、ベトナムで栽培したコショウとカカオ豆を輸入し販売しています。それまではコショウの良さもわかりませんでしたが、ひきたては香りが全然違う。辛くてコショウを避けていたわが子たちも、「おいしい」っていうんです。今はまだ、「何年分の在庫があるんだよ」って感じなんだけど、その在庫が解消されたころには世の中に“流れ”ができているということでしょうね。

 

ベトナムで海外に通用するような加工品まで作れるようになれば、ベトナムに落ちるお金が多くなります。彼らが作ったものを安定した価格で買って、日本で販売する仕組みを整えていくことで事業を発展させていきたいですね。いま、このベトナム事業にとてもやりがいを感じています。

 

-やりがいを感じる理由は。

軌道に乗れば、われわれも労働力が確保され、安定してみかんを作ることができる地域になる。ベトナムの生産者を支える仕組みもできる。消費者は意識せず、食べるだけで「SDG s」(持続可能な開発目標)なんですわ。かつて近江商人が掲げた「三方よし」です。それが成り立つような仕組みづくりをすれば、成功です。

 

自分の仕事の指標は、子どもに自慢できるかどうか。今、ベトナム事業のことは自信を持って子どもに語れます。どこでも真似できないことをやっている、と自負しています。

 

 


 

「子どもたちは、地域に育ててもらいました」。4人の父親でもある細島は、無茶々園のすぐそばに広がる、静かな海を眺めながらそう振り返る。暮らしも仕事も、地域と一蓮托生。細島は、「地域のため」を標榜する組織にとって、理屈ではなく、感覚的に捉えられる貴重な人だ。そのぶ厚い情と、まっすぐな心、グローバルな判断力で、これから起こりうる“波”を乗り超えていくだろう。

 

(取材・文)ハタノエリ (撮影)徳丸 哲也

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