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無茶々園をぼくらが いま、えんえん語る【第7回】

2022.02.05

産地の若きリーダー、

暮らしも仕事も全力で楽しむ。

 

無茶々園 いまのひと⑦

地域協同組合 無茶々園 理事長

農事組合法人 無茶々園 代表理事

宇都宮幸博(46歳)

 

 

無茶々園の柑橘農家は、現在61軒(2021年10月時点)。多くが、愛媛県西予市明浜で営み、農事組合法人に所属する。42歳から、その理事長を務めるのが宇都宮幸博(さちひろ)だ。無茶々園の農家の長男として育った彼は、すんなり後を継いだわけではない。気候、社会と刻々と変わるいま、踏襲するだけでは農業はダメになる。農家のリーダーとして“変わること”に果敢に挑む宇都宮に、その想いを訊いた。

 


 

いつだって大好きな海が見える場所で。

 

 

-農園の前には明浜の絶景が広がっていますね。

この畑は、僕が栽培する農園の一部です。園主さんが高齢になって栽培できなくなり、引き継いだ農地です。農道をくねくねと走らせた山のてっぺんにある畑ですが、作業がしやすいのと、お客さんを園地に招いたとき、見渡す眺めがすばらしいので「案内しがいがあるなあ」と思って引き継ぎました。

 

-どれくらいの広さで栽培されているのですか。

全体で5ヘクタールほどです。このあたりの農家の中では一番じゃないかな。柑橘農家になって19年間で、耕作放棄地を請け負ううちに倍の面積になりました。

 

-農業の魅力は何でしょう。

自由に時間を使えるのがいいですよ。畑の作業に疲れたら、すぐに近くの海に行ける。夏場は、早朝に草刈りに行って10時には一度自宅に戻って、大好きな海に潜る。15時からまた山で草刈りに。そんな過ごし方ができます。海で獲ったものは、仲間と酒のあてにして、バカ話をしたり、まじめに将来のことを語ったり。農家の日常は楽しいです。

 

宇都宮は無茶々園がある明浜の柑橘農家のもとに生まれ育つ。高校を卒業後、愛媛県立農業大学校に進学。卒業後は、大学の先輩に誘われて、松山で会社員になる。27歳のとき、結婚したタイミングで柑橘農家になった。

 

 

人生の伴侶ができて、農家になる。

 

-農家になりたかったのですか。

車と料理が好きで、どちらかの道に進みたかったのですが、親が全面的に金銭の援助をしてくれるというので、松山市にある愛媛県農業大学校へ進学しました。農家になるつもりはなかったんです。卒業後は、知人が働く会社に、誘われて就職しました。若い頃は将来や自分のことについてあまり考えていなくて、その日が楽しかったらいいという生き方をしていましたね。 

 

-どういう会社に就職を?

農薬の卸業の会社に3年ほど、営業をしましたが、ノルマを含めて自分の性に合わないなと思って退職しました。無職のまま帰ってきて1年ほどプラプラしていましたが、結婚を機に「百姓になろう」と決めました。

 

 

-なぜ農家になろうと決意したのでしょう?

みかん作りだったら家族を養っていけるし、学校で習った知識と経験もある。同級生に農家の長男が多かったのですが、結果、僕しか後を継いでいない。チャンスだし、農家で食べていけると思ったからです。

 

-無茶々園の柑橘農家になった理由は。

父親が無茶々園の農家だったのです。僕のように親が無茶々園で、そのまま無茶々園を受け継いだ子世代を「セカンド世代」と呼んでいます。

無茶々園は、農薬を使わない特殊な栽培方法だから、方向性の違いで親父とすごくケンカをしましたね。僕は学校で、農薬を使う「慣行栽培」を習いましたし、農薬を扱う会社でも働いていました。農薬をかけたらある程度のレベルまではみかんができることがわかっていました。農薬を使わないでみかんを作る難しさに、戸惑いました。

 

 

農薬を抑えた栽培か、現実か。伝統か、変革か。

 

-農薬を抑えた栽培を受け入れたのですか。

34歳のとき、無茶々園の農家で構成する「農事組合法人」の理事になってから、三大害虫と呼ばれる「そうか病」「カミキリムシ」「カメムシ」をどうにかせんと収益率は上がりませんよ、とずっと言ってきました。組織が生まれた40数年前の気候と今とでは、環境がまったく違います。これまで守られてきた「無農薬栽培」を否定するような考え方に対して、ほかの理事たちはめちゃくちゃ怒りましたね。そのときは、「こんな融通の効かない組織、やめてやる」と思いました。

 

でもあきらめず、独自の栽培マニュアルを作ってカミキリムシを防除し、対策をすることでどれだけ収穫量が増えるか数値化しました。5年がかりで農薬を使用することを説得できたとき、「自分たちの組織は自分たちで変えられる」と気づいたんです。無茶々園にいる覚悟をしたのは、このときです。

 

 

-なぜあえて農薬を使用する方向を訴えたのでしょうか。

当時は、外部の人からも「無茶々園が消毒なんかやっていいんか」と言われていました。特に近年のカメムシ被害は、農家にとって大ダメージです。必死に作っても、ものとして売れない。きれいごとだけでやっていたら、60軒以上の家族が路頭に迷ってしまうんですよ。

 

-「消費者が求めるもの=無農薬」に対してはどう考えますか?

消費者と直取引する無茶々園は、声がダイレクトに聞こえてきます。そこは、消費者と対話し、こちらの状況や思いをわかってもらいながら、選択できるようになることをめざしていきたいですね。

 

-“伝統”を変えるのは大変です。なぜそこまで変化を訴えるのか。

生産者の中で、一番経営を見ていると自負しています。無茶々園に入ってから、東京出張によく行かせてもらい、全国の農家さんと出会いました。観察好きなので、どういうものをどう売っているか、食べさせているか、人の興味関心はどこにあるのか。つぶさに観察した上で、無茶々園の柑橘をどうやったら売れるのか、とずっと考えていましたね。

 

-考えた先に芽生えた意識はありますか?

ほかの産地と違って、明浜はブランドを持たないため、あまりもうかってないエリアです。正直それまでは、“よそ”をうらやましいと思っていました。でも、東京では、地域ブランドとか関係なく、おいしければ売れる。2週間ほどお店に通って様子を観察すると、だれもが、「おいしいみかんをください」「安全な野菜をください」ってリクエストする。それが、お客さんなのです。農家はいまだに地域で競うけれど、自分たちがちゃんとしたものを作るのが大事なのです。

 

理事として経験を重ねながら、42歳の若さで60軒をまとめる理事長になった。きちんとモノを言う。その裏で、じっくりと考え、広く細やかに行動をする。“やんちゃ”だった若かりし日々の片鱗を残しつつ、産地のリーダーへと育っていった。

 

 

やれることはやる。それが自信を持つための第一歩。

 

-理事長という役はすぐに受け止めたのですか。

それまでは副理事長を務めていました。支えるのは好きだけど、前を歩くのは正直、好きじゃない。引き受けるかどうか悩んでいたとき、「選ばれたのだから、やる価値はあるよ」と大津社長に言われ、腹を括りました。

 

-理事長としてやっていることは?

理事会の前に地区ごとに開かれる会、無茶々園の定例会、夜の小さな会合まで、すべての会に顔を出すようにしていますね。それぞれに話をして、やる気を高めるための言葉がけを積極的にしています。

 

-なぜそこまで細やかに動くのでしょうか。

100パーセント自分がやったという自信が持てるからじゃないですかね。実際に何かアクシデントが起こるときは、僕の目や気持ちが離れたときです。気をゆるすと失敗する。柑橘栽培は、一つの失敗が、経営の大きな失敗につながります。細かに注意を払うことが大切なのです。

 

-トップの役目とは?

未来のことを含めて、方向を示すことです。農家も生産者である前に一人の経営者。たとえば、個々が、無農薬か低農薬か、慣行栽培か、栽培方法を選択できる組織こそ、これから求められると考えます。

 

無農薬に向かないものを無農薬にするのはナンセンスです。新しく生産をはじめた和製グレープフルーツとも言われる河内晩柑(かわちばんかん)は柑橘のオフシーズンの5、6月に収穫を迎えるから、絶対将来戦力になるから入れさせてくれ、とお願いしました。ただこの種類は、落果防止剤が不可欠なのです。それぞれの柑橘に合わせたブランディングで、消費者に向けて販売先を見つけたらいいのではないか、と僕は考えます。

 

柑橘を育て、組織をまとめる多忙な日々を送りつつ、地域の役もたくさん引き受ける。原動力は「ここの暮らしが好きだから」。

 

 

産地で支え合い、次世代にバトンをつなぐ。

 

-無茶々園の農家になって19年が経ちました。無茶々園をどう捉えていますか?

無茶々園というのは普段、あまり意識しないですね。自分の姓を意識しないのと同じような感じです。ただ、自分の今があるのは無茶々園のおかげ。誇りと感謝を持っています。

 

最初のころは、独立して「宇都宮農園」としてやっていきたいという願望はありました。でも、明浜の皆さんに育ててもらったのが僕にとってとても大きい。僕もやがて高齢になり、誰かに支えられないとできないときが必ず来ます。次の世代へとバトンをつないでいく。その営みが大事だと思っています。一員である以上はグループを大事にして筋を通した生き方をしたいですね。でも、そう思えるようになったのはほんと、最近ですよ。

 

 

--明浜では、産地を守ることは地域を守ることでもありますね。

僕が暮らす俵津地区は人口が1000人を切りました。お世話になった人が急に亡くなる寂しさもあります。別れもある一方で、次の世代の子たちが移住してきて農家になってくれています。彼らと、ここで楽しく生きてくように、野福(のふく)峠の草刈りをしたり、地域を盛り上げるにはどうしたらいいかなってお酒飲みながら考えたりしています。

 

-明浜はどんな地域ですか?

一斉清掃やお祭りなどたくさんの行事があります。住民同士が助け合いながら生きていくのがこの地域です。距離感が近いことも居心地がいいと感じます。地域の先輩方と酒を飲みながら、人生やこれからの農業のことをいろいろ話してきました。そうして僕は、一人の人間として成長できたように感じます。

 

 

ここで生きるのが楽しい。そんな仲間を増やしたい。

 

-地域活動も積極的に行なっていますね。

僕たちがやっている活動の一つに、小学生の課外授業があります。5年生にはホタルの授業を、3年生には、みかんの収穫体験をやっています。ここの子たちは90%都会に出ていきます。「故郷に戻りたい」と思ったとき、迷わず戻れるように、「ここで生きていけるよ」というのを伝えたい。この地域の魅力は、この地域に暮らす人しか教えることができませんから。

 

-明浜の暮らしの楽しさ、とは。

柑橘農家としてここで生きていくことが僕自身、すごく楽しいんです。若い頃から明浜の海を「僕の海」と言っているぐらい、自然が好き。子どもの頃から素潜りしてタコやサザエをとって食べていました。今でも、ストレスが溜まると海に逃げます。自然とともにある暮らしが、ここで生きていく一番の特権だと思っています。

 

この楽しさ、豊かさをたくさんの人に知ってほしい。消費者をはじめ、積極的に交流していきたいです。空き家をリフォームして都会の人を呼び込んで、産地体験をしたり、無茶々園の職員にはダイビングのインストラクターの免許をとってもらって、海と山の体験ができるようにしたり。そうやって明浜のファンをつくっていきたいですね。

 

 


 

家族ができ、生きていく術として農家になる道を選んだ宇都宮。農家になったのは、農家の長男に生まれた定めのようなものだったかもしれない。だが、ふたを開けてみれば、農家は彼にとって天職だった。物事にまっすぐに向かう心、切り拓く力、根気強さと責任感、自然への敬意。それはそのまま、産地のリーダーとしてこの上ない資質だ。明浜の農業と地域をこれからも明るくたくましく、導いていくだろう。

 

取材・文/ハタノエリ 写真/徳丸 哲也

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